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ユーザビリティ前史のミニシリーズで、インタフェース関係者の関心が徐々に変化してきたこと、そしてその中にユーザビリティ的な観点が必要とされるようになってきたことがお分かりいただけたかと思います。それに対応して1980年代から例の評価を中心にしたユーザビリティの活動が本格的に始動し、そして 1990年代の後半にISO13407を制定するための委員会がスタートしました。
当時僕はまだISOの規格の活動には参加していませんでした。でもユーザビリティに関するかなり重要な規格の審議がスタートするらしい、日本サイドとしてそれに対応するWG(Working Group)を作る必要がある、ということで相談を受け、WG6というWGを構成することになり、その主査を担当することになりました。それが僕と ISO13407との出会いになったわけです。
ISOには様々のTC(Technical Committee)があり、技術分野ごとに分かれています。たとえばTC22は自動車関係、TC159は人間工学関係という具合です。ISO13407 はTC159の中のSC4(Sub-committee)/WG6というところで審議されることになり、僕はそちらの国際委員会のメンバーともなりました。日本のWG6はそのミラーグループ、要するに日本支部のような形になっているわけです。TC159は日本人間工学会が全体として窓口となり、とても熱心に活動をしていました。コウモリ男の僕は心理学を出発点として人間工学やデザインなど多方面に首をつっこんでいたので、人間工学会のコアメンバーの方達とも知己の関係にあり、WGの活動は円滑にスタートしました。WGのメンバーとしては他に認知心理学やデザイン、経営学などをベースにしてユーザビリティに関与しておられた当時日本における先端レベルの皆さんが参加してくださいました。
ISO13407のエディター、つまり原案作成者はイギリスのTom Stewartです。例のBrian Shackelのお弟子さんで、人間工学のコンサルタントをしていて、今はユーザビリティのコンサルタントをしています。彼はなかなか優秀な人で、彼の慧眼は数年以上たった現在でも、いや、数年の間にじわじわと、ISO13407の社会的意義という形で実を結んできています。今やユーザビリティ関係者で ISO13407のことを知らない人はいないといってもいいでしょう。そんな基本的規格になったわけです。
ただ、残念なことに日本側が参加したときにはもうドラフトがかなりできあがってしまっていて、部分修正の段階でした。面白いことに、日本側は事前に議論を行い、日本としての意見をまとめてから会議に臨んだのですが、欧州からの参加者はどちらかというと個人的スタンスで参加してきて、自分の考えたことをどんどん話す。ん、その方がいいのかな、それが許されるなら、と考えて、だんだんとISOの委員会における私の発言は私の個人的意見になっていきました。もちろん国内での委員会であらかじめ、そして事後に意見交換をする作業を怠ったわけではありません。
日本側の組織ができた時点で、さっそく通産省(当時)の関係者とコンタクトをとりました。そして現状を話し、日本としてどうしていくかという政治的判断についての協議を行いました。当時、日本の産業界はISO9000や14000などの対応に追われていて、また新しい規格ができてその対応におわれるのは嫌だ、という空気が充満していました。通産省は産業界保護の立場にたっていますから、産業界に過剰な負荷を追わせることには慎重でした。その意味では ISO13407は最初から苦しい状況に直面していたといえます。
でも一つ考えられることがありました。それは、この規格がそれに適合しているかどうかをチェックするという認証システムにつながるという可能性があったからです。さらに、この規格に適合していないと欧州市場から排除されてしまうという非関税障壁になる可能性も懸念されました。そこで通産省の担当の皆さんと協議した結果、日本の各種工業会、それこそ50くらいあったと思うのですが、その代表の皆さんをあつめてアナウンスの会合を持ちました。中にはネジの工業会などあまり関係ない方々もおられましたが。で、そこで、今こうした規格の審議が進んでいる。これに対する対応について慎重に準備する必要があろう、というような話をしました。
その後、そこで配布した資料がコピーされ、それがまたコピーされたらしく、あっという間に関連工業会に所属する企業の担当者に回ってゆきました。怪文書 (^_^;)もでました。ようするに静岡大学(当時)の黒須と通産省の某氏が画策して「妙なこと」をして、企業に余計な負担をかけさせようとしている、というようなものです。実際に目にしました。妙な気分でした。こっちはまじめにやっているつもりだったし、こうした形で企業の設計プロセスを改善することは企業体質の強化につながる、と考えていたからです。
まあちょっと変な形になった部分もありましたが、1999年にISO13407がIS(International Standard)として制定された時期には、日本の産業界はそれに対する対応、すくなくとも予備知識はかなり持っている状態になっていました。これは当時、世界でもトップレベルの情報普及だったといえるでしょう。
制定されてすぐ、今度はそれを翻訳JIS規格にすることになりました。ISOというのは規格の親玉組織。アメリカではANSI、ドイツではDIN、そして日本ではJISという規格がその子分という形になっています。ISOの規格になったもので重要なものはすぐに翻訳に入り、JIS規格として日本に広めるのが普通でした。それでJIS作成委員会が作られました。これまでの流れで私が委員長となりました。すでにISO13407の原案は各企業に流れていたので、幾つかの企業ではそれを私家版として日本語化していました。その中の一つをベースにさせていただいて日本語化の作業を行いました。一年で完了しました、させました。最終的にそれはJIS Z 8530という規格となって公開されました。そして多数のコピーが購入され、その違法コピーがでまわりました。違法コピーもでまわりましたけど、それによって規格についての知識が広まるのは悪いことではなかったと思っています。
黒船論、つまり欧州市場における非関税障壁になりそうな規格がやってきたという恐怖アピールはかなり効きました。2000年の前後からユーザビリティの組織が各企業に設置され、ユーザビリティラボが設置され、担当者が置かれるようになりました。でも幸いなことに、非関税障壁として利用する動きは結果的にでてきませんでした。それと同時にISO13407の真意が理解されるようになり、企業における設計プロセスを改善しなければ、そして改善していけばそれはいいモノ作りにつながり、結局は企業に利益をもたらし、企業体質を強化するものだという考え方が広まってしまっていてくれました。これはありがたいことでした。本来のユーザビリティの活動を開始するためには、そうしたコンセプト的な基盤が広まっていることが必要だったからです。
そんなわけで、ISO13407が登場し、特に日本においては世界に先駆けて、それへの対応を前向きにしようという雰囲気ができあがった、というわけです。逆にアメリカなどでは、ようやくここ2,3年でISO13407が知られるようになりました。アメリカというのは多少独善的な国で、ISOの規格というのは欧州のもの、と見なしているところがあります。そのためTC159の委員会にもあまり参加せず、むしろ独自にいろいろな基準をつくり、それを世界に対するデファクトスタンダードにしてしまえ、というような姿勢があったのです。でもNISTという政府直轄組織におけるCIFというユーザビリティテストの報告書書式を策定する委員会や、UPAという学会におけるユーザビリティ資格認定のための研究会などの場に、イギリスのJonathan EarthyやNigel Bevanが積極的に参加してPRをしてくれたおかげで、アメリカも変わってきました。まだ少数ではありますが、ISO13407のコンセプトはアメリカでも受け入れられるようになってきたのです。
じゃあ、どういう点にISO13407の特徴があり、それがユーザ工学的にどういう意味をもつのか。その点は次回に書かせていただくことにします。今回は、インタフェース研究の流れの中から、ユーザビリティに対する関心が高まり、その一つのシンボル的規格としてISO13407がでてきたこと。さらにそれが日本においてどのような形で受け入れられ、定着してきたか、ということを書かせていただきました。
こんな歴史的概観なんかつまらなかったでしょうか(^_^;)。でもISO13407は歴史的に意義のある規格であり、その歴史をひもといてみることが必要だったのです。ご理解いただければ幸いです。
では
(第15回・おわり) → 第16回「プロセス規格としてのISO13407」(予定)