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私は企業研究者で、音の再生やその制御に関する研究開発を担当しています。大きな用途の一つがバーチャルリアリティです。音のバーチャルリアリティは、ある方向や距離から音が届いているかのように知覚させたり、ある場の音を立体的に再現したりする技術です。工学的には耳に届く音をコンピュータにより作り出すことです。しかし、お客さまが満足し、楽しんでいただけるコンテンツを作るとなると、なかなか一筋縄ではいきません。音を聴くことは実に主観的な体験であるからです。
学生のころ私は、音の方向や距離を精度よく知覚させるために、音が耳に届くまでの物理特性を人ごとに推定する方法を研究していました。この物理特性が、頭の大きさや耳の形などに依存すること、すなわち、人ごとに異なることが知られていたからです。この物理特性を測定したり推定したりして、耳に届く音をコンピュータにより作り出します。客観的には現実の音と作り出した音の波形が一致していればよく、主観的にはそれらの方向や距離が同一に知覚されればよいわけです。作り出した試験音を実験室で聴いて、上手くいく唯一の方法だと思っていました。
就職した私は音を扱う研究部署に配属されましたが、この研究部署はわずか2年半後にユーザインタフェースを扱う研究部署に再編されました。CXやUXという用語を良く耳にするようになったころで、HCDを知るきっかけになりました。使う人の観点でものを作るためのこのしくみは、音のバーチャルリアリティの研究開発を進めるうえでも、気づきを与えてくれることになります。今思えば当たり前ですが、ある方向や距離から音が届いているかのように知覚したいのではなく、人それぞれに、例えば、好みの人や楽器にもっと近づきたかったり、見たり、聴いたり、感じたりしたいのです。上手くいくと思っていた方法は、その目的には必ずしも合っていないことも。我に返ったように一から見直し、新たな録音再生方法と操作インタフェースを一体設計し、お客さまに提供するに至りました。先の物理特性は使用していませんが、体験したお客さまは満足していただいたようです。
HCDはニーズとシーズの架け橋になり、新たな視座を与えてくれました。勉強はまだまだ道半ばですが、大いに学び、活用していきたいと考えています。お客さまが楽しんでいただけることが、何よりも研究者冥利に尽きますから。