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前回機会を頂いてから約1年ぶりの理事コラムへの寄稿となります。1年前には何を書いたんだろう、と見返してみると「HCDの”H”は、今後『人間性(Humanity)』がどうあるべきかを見つめるべきではないか」というような実にまとまらないことをポエムのように書き散らかしていて、我ながら恥ずかしい気持ちになりました。
それはさておき、この1年で世の中は大きく変化してしまいましたね。新型ウィルスの発生と急速な感染拡大によって、たった数ヶ月前までの日々の営みにおける「あたりまえ」がガラリと変わってしまったことを、多くの方が痛感されているのではないでしょうか。あたりまえのように毎日職場や学校に行き、好きなときにひとと会い、まちにはお店があふれていて朝から夜までどこも明るく、色々な場所を好きなように行き来していたことが、今思えばいかに自由なことであったろう、と懐かしくすら思えます。けれども、人間の目には見えないとっても小さなウィルスが生まれてしまった”だけ”で、もろくもその自由は崩れ去ったわけです。人間は長い歴史の中でさまざまな技術を生み出し、進化させることで、いろいろなものごとをうまくコントロールしてきました。自然現象や疫病ですらも、人間にとって都合のよい状態にコントロールできるということを前提として、わたしたちの社会を成立させる仕組みはつくられてきたと言ってもよいでしょう。
しかし、とっても小さな、目で見ることすらできないウィルスの出現”だけ”で、その仕組みはあっという間に脆くも崩壊しつつあるわけです。今年度の京都大学大学院入学式(式は開催されずオンライン開催となった)において山極寿一京都大学総長は、大学院新入生に向けた祝辞の中で昨年アフガニスタンにおいて命を落とされた医師中村哲さんの言葉を引用し、技術への絶対信頼に裏付けられた”行き過ぎた”近代的な人間中心主義を批判しました。[1]
美術批評家のジョナサン・クレーリーは、自著「24/7:眠らない社会」の中で、『連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある』と述べ、ある意味人間にとって都合のよい”人間中心”の社会のためにつくられたはずのシステムの中で、人間自身がシステムを構成する「機械の一部」になってしまっていることを指摘しています。[2]
20世紀の前半に喜劇王チャーリー・チャップリンが映画「モダンタイムス」の中で、急速な近代化の中で個人の尊厳や人間性が軽んじられていくことへの警鐘を笑いで鳴らしてから100年近く経ちましたが、いやはやわたしたち人間はなかなか学習しないようです。人間が自然を完全にコントロールすることなどできないのだということを前向きな諦観も含めて受け容れ、人間が合理的に説明のつかないものなどいくらでもあることをも含み入れたうえで、それでもこの世界の中のひとつの存在であるわたしたち人間が、どのようにすれば幸せに日々の生活の営みを行うことができるのか?そのための社会の仕組みや、自然との関わり方、豊かな生活の営みの媒介となってくれるべき製品やサービスはどのようにあるべきか?について、人間を自然を含むその他のものごとからの超越的存在や征服的存在であると排他的に取り扱わずに、どのようにすれば良い状態をつくることができるかを考えていくことが、これからのHCDに求められることではないでしょうか。(「ユーザー」中心、という考え方においても同様のことが言えるでしょう。)自然環境などの劇的な変化を否が応でも強いられる時代時代において、世界は進化してきました。
昨今の状況は、わたしたちが生きるこれからの世の中を良いものにしていくために、HCDが貢献できることは何かについて知恵を絞る良い機会かもしれません。ぜひ、しばらくはオンラインで、そして状況が許すようになれば新しいかたちでのオフラインも交えて活発に議論しましょう。
引用元情報:
[1] 令和2年度大学院入学者への祝辞について(京都大学ウェブサイト,2020年4月7日),
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/president/speech/2020/200407_2.html
[2] 24/7 眠らない社会,ジョナサン・クレーリー,岡田温司 監訳,石谷治寛 訳,2015 , https://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002343.html