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医学の世界では、細胞同士の間にある空間の「間質」と、それを満たす体液「間質液」を器官とする流れがあるそうです。これまで「間質」や「間質液」は、役割があるとは考えられていなかったのですが、組織が「衝撃緩衝材」としての機能を果たしている可能性や、細胞が発するさまざまなシグナルや有害な分子の存在を伝達する役割を担っている可能性があることが明らかになったそうです。
このニュースを聞いて、セールの準-客体論を思い出したのです。セールは、『パラジット』で、ボールゲームの比喩を用いて「ボールはありふれた対象(客体)ではない。なぜならボールは主体がそれを手の内に有している時にしかボールとしてのあり方をしないからである。ただそこにあるだけなら、それは無である」と述べています。
さらに現代的なサッカーは、ボールや選手も主体ではなく、選手もボールもいないスペースが主体として扱われているような側面もあるようになりました。こういった変化には、さまざまな角度からの俯瞰的なビデオビューや、GPSなどの運動の時間変化による可視化によって初めてスペースが捉えられるようになりました。スペースがただ見える、という以上に、ある関係性を媒介することが観測可能になることで、振る舞う存在として立ち現れるようになったのでしょう。
ひとつのものがある機能を有するというのではなく、むしろある無秩序の中で、たまたま活性立った関係の中で、相互に反応して機能として見えるようになったというほうが近いのではないだろうかとも考えてしまいます。
「我々は互いに環境である(1999上野)」と考えれば、何者か?は独立しては定義できず、主客の区別なく、どんな関係で結ばれているか?どう言った関係性から意味が構成されているか?という視点をもたらし、さらに、それらを媒介している何かもあるやもしれません。
HCDプロセスに翻って考えてみると、私たちはユーザーを絶対的な主体として考えていたようにも思うのです。「すべてのプレーヤーはボールの中継点である<中間的なもの、すなわち準主体>に過ぎない」とセールが言及するように、ユーザーも、ある価値や意味の中継点に過ぎず、ユーザーを取り巻く、環境、他者や人工物、ネットワークとの関係性の中で、意味や価値を伴って動いているように見えると考えていくと、この絡み合った複雑な問題を観測する新しい手が見えるやもしれません。
参考)
人体で最大の「新しい器官」は、なぜいまになって“発見”されたのか Wired(2018.04.04)
https://wired.jp/2018/04/04/found-a-new-human-organ/
ミシェル・セールの〈混合体corps mêlés 〉概念 縣 由衣子(2016)
パラジット: 寄食者の論理〈新装版〉 ミシェル・セール(2021)
仕事の中の学習 上野直樹(1999)